私の趣味との出会い遍歴

出典「私の趣味」さま



釣り :  

学生時代は「釣友会」に所属して岩魚釣り。
今はもっぱら海釣りである。2005年春、愛媛の海でアジを釣っていたところ88センチのヒラメが来た。
格闘の末、ハリス3号で何とか釣り上げた。
これが今までで一番の大物である。私は釣った魚は食べるべきという信念を持っている。
もちろん自分で刺身も作る。
「釣って成仏、食べて供養」であり、食べずにリリースするつもりならば最初から釣らないほうがよい。
動物に苦痛を与えることは好きでないが、釣は野生の命に触れることで、自分も生命世界の一員であることを自覚させるという大きな意義を持っている。
これについては論文も書いている(「糸の先にあるもの」)。



俳句 :  

下手の横好き。
学内関係者との句会「笹鳴き句会」や、プロである法学部岩岡教授を招いての句会「ディーンの会」を楽しんでいる。
初孫が生まれて作った句「白桃に触れるがごとく赤子抱く」 。
その孫も成長中。
孫を見ながら、人間の基本的欲求について学んでいる。
その結果、赤ちゃんに前歯から生えるのはそれを「武器」にできるためであることに気づいた。

テニス : 

始めて20年以上になるが一向に上達しない。
しかしビギナーを教えることだけは上手なほうだと思っている。
足だけは速いつもりだが、体重オーバーのためすぐに息が上がってしまう。
このところ忙しくてほとんどできないのが残念である。
熊本は夏が特に暑いので、この時期は屋外でのプレイは避けている。

麻雀 :  

金ではなく名誉[たいしたものではないが]を賭けてしている。
運の動きを知るのに最適。
潮の満ちるように運が回ってきて、潮が引くように去っていく出会い系良縁悪縁を見るのは快感である。
また、ある場合、一手には論理的あるいは確率論的に考えて最善のもの、必然のものがある。
それをうっかり間違えると運は急落していく。
また、上昇気運では強気に、下降気味のときは慎重にという姿勢が必要。
勝負するときには臆せず勝負しなければならない。人生の縮図のようなゲーム。

絵を描く: 

水彩・油絵。
学生時代には登山のときに水墨で山を描いていた。
実は中学高校時代には軍艦を水墨で描いていた。
最近は忙しくてなかなか描く時間が取れない。
油絵は何度も推敲するように塗りなおすので論文を書くのと似ており、気分転換にはならない。
一筆ごとに全体の様相が変化する点も、論文の執筆と似ている。
描くには気合が必要。
H16年に生まれたばかりの孫の世話をしつつ描いた油絵(15号)ではじめて、自分の感情が絵に現れることを経験した。
それ以来、風景画を描けなくなった。H18年の夏には、水草の中から大きな赤い鯉がゆっくり浮上する姿を描いた。
自分にとってその鯉は真理のようなものである。
つまり、ぼんやり見えてはいるがじっと眼をこらすと見えなくなってしまうもの。
ごく最近は「出会いパターン」に凝っている。
熊本恒例の冬の植木市で多くの花を見ていて、花の美しさは色とともにパターンの繰り返しであると思った。
そういえば、縄文土器にも繰り返されるパターンがある。
人生も或る意味では、多少のヴァリエーションを伴いつつもパターンの繰り返しである。

ハイキング : 

学生の頃、岩魚釣の後でよく山に登った。今は九州の山(阿蘇、九重など)をのんびり歩いている。
若い頃は重い荷物を背負って頂上を目指したが、その苦しさが楽しくもあった。
天候と足元だけに注意して、余計なことは一切考えずに、動物のようになって行動することのもつ魅力かもしれない。
ただし、動物のようになるとは、自分の欲求丸出しになることではない。
むしろ人間の生活につきものの欲求が消えること。
難しく言えば、主客合一のような経験。
仏教で言う悟りが日常を上に突き抜けるとすれば、山で動物のようになることは下に突き抜けるようなもの。

パチンコ : 

学生時代には椅子ではなく立ってしていたこと、チューリップが導入されたこと、フィーバー機の出現等、この40年ほどの歴史は書物にする価値があると思う。
また、「海物語」とはご縁がある。
この機種の大人気の秘密も 心理学や社会学の研究対象になるのではないだろうか。
今でも閉店近くなってたまに行く。
以前から不思議なことは、私が見ている人の台がよくフィーバーすること。
錯覚だろうが、ひょっとすると、私には人を幸せにする能力があるのかもしれない。

読書(推理小説) : 

特技は、過去に読んだものをすっかり忘れていること。
松本清張もので、3分の2ほど読んでから以前読んだことに気づいたこと等数々ある。
完全に気晴らしのための読書である。
研究のための読書量は年とともに減少。
ひとつは自由時間が減ったため。
もうひとつは、読むより考えることを優先するようになったため。
そしてもうひとつは、多分、亀の甲より年の功で、読まなくてもわかる部分が増えたため。




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